安保理の憲章 4

安保理がその与えられた権限と責任とを正しく果たすよう、総会としても目を光らせるということです。


安保理が機能できなくなると、総会がこれに代わって行動する仕組みも、憲章の解釈として可能となっています(第12条の反対解釈)。


また、事務総長が安保理の「注意を促すことができる」(第99条)という若干曖昧な規定にも注意しておきましょう。


この規定に基づいて、事務総長も安保理の開催を働きかけることができるようになりました。


それでは、安保理の会合は、どの程度の頻度で開かれてきたのでしょうか。


べーリーという学者の『安全保障理事会の手続き』という優れた実証研究の労作がありますが、これによりますと、1946年から86年までの41年間に、全部で2730回会合しています。


1年当たり平均すると約67回ということになります。


つまり、5・5日に1回という割合です。


だから平均すると1週間に1度は開いているわけです。

安保理の憲章 3

多国籍軍の軍事行動に対する荷担について、国際法上は問題にされることはないにしても、そのことが憲法上持つ問題について、国連決議はなんらの答えをも与えるものにはなっていないのです。


もっといえば、日本が多国籍軍に軍事協力することの憲法違反の可能性(集団的自衛権の行使)という問題は、少しも解消していなかったのです。


この問題は、またあとでも触れますので、ここではこれ以上深入りしませんが・・・


これらの決議を受けて日本政府が決めたいわゆる貢献策にしても、また、90億ドルの拠出にしても、憲法問題を避けられない類のものであったことを是非認識しておきたいと思います。


安保理は、毎月議長国が代わりますが、その議長が必要と考えるときは、その裁量で会合を招集できます。


また、加盟国の要請に基づいて議長が招集しなければいけない場合があります。


そのほか、総会が安保理の開催を勧告する場合がある(第11条2項)。


・・・これは、国際の平和と安全に関する問題については、総会は安保理に主要な権限を認めたのですが、総会としては、安保理の行動に対して包括的な白紙委任状を与えたわけではないということです。

安保理の憲章 2

8月2日の決議660号で暫定措置をとったあと、安保理は早くも4日後の6日にはこの「決議が実施されていない」とし、「憲章第7章の下に行動」するとした上で、すべての国家がイラクに対して一連の経済制裁をとることを定めました(決議661号)。


・・・これは、明らかに第41条に基づく非軍事的な措置としてとられた、すべての国連加盟国を拘束する決定でした。


9月24日には、経済制裁をさらに実効あらしめるようにするため、イラクに対する空輸を禁止する決議(670号)が採択されましたが、これも同じような性格を持ったものです。


また、11月29日に採択された決議678号も、「憲章第7章の下で」行動するということが前文でうたわれています。


・・・しかし、決議678号に関しては、奇妙なことに内容のどの部分を見ても、加盟国の行動を拘束する規定ぶりにはなっていないのです。


日本政府が「国連協力」と称して自らの行動の法的根拠であるかのように印象づけようと腐心したこの決議は、集団的自衛権に基づいて行動する多国籍軍に各国が協力することを、国連としては歓迎する立場であることを表明したものに過ぎませんでした。


したがって、分かりやすくいえば、日本が多国籍軍に協力することは、あくまでも日本の自主的判断に基づくものであって、ただ国連としてはその日本の行動に対して異論を唱えることはあり得ないことを表明しただけのことだったのです。


安保理の憲章

非軍事的な制裁措置や外交関係の断絶に訴える(第41条)可能性と、それでも不十分と認めて軍事的な措置をとる(第42条)可能性とが考えられています。


・・・この場合、当然のことながら、まずは非軍事的な措置を講じることが予定されています。


そのことは、安保理が非軍事的措置では不十分であると認めるときに初めて軍事的措置を講じることを明らかにしている(第42条)ことから明確です。


ただし、非軍事的措置では不十分であると認めるというときも、実際にそういう措置をとってみてから不十分と認める場合と、初めからそのような対応では十分ではないと判断する場合とがあります。


あとの場合ですと理論的には、安保理は、いきなり軍事的な措置をとる場合もあり得るのです。


湾岸危機に際して安保理がとった行動は、以上の憲章の規定が現実にはどのように具体化していったかを示す格好の例となっています。

新しい理念 4

日本が戦後一貫してつくり上げてきた産業構造は、外貨不足の不安感・恐怖感に基因する見せかけの自己充足型産業構造です。


この自前主義経済は、"輸入しない"あるいは"輸入できない"構造をつくり出したのです。


・・・この構造は、どうみても自由貿易体制とは相入れな%いものです。


この意味で、日本は擬制(見せかけ)の自前経済を築くために、自由貿易体制を手段1として利用してきたといえなくもないでしょう。


日本国内だけのスタンスに立てば、この自己充足型の自前主義的経済は、それなりの説得力がありますが・・・


世界的スタンスからみると、それはナンセンスなのです。


・・・というのは、世界の自由貿易体制というシステムの中には、貿易が自由に行われれば、世界の貿易量が拡大し、世界に政治的・経済的繁栄と安定をもたらすという理念が刻み込まれているからです。


したがって世界的スタンスからいくと、自由貿易体制の維持という目的を達成するために、各国は自由の経済をどう協調させていくかが最重要課題なのです。


・・・日本もその例外ではありません。

新しい理念 3

フォードの自動車哲学は、単なる金儲けにあったのではなく、農民の労働軽減であり、また富める階級のための奢修品としてではなく、一般大衆のための実用品としての自動車を提供することなどにあったのです。


・・・これらのことから新しい消費・需要あるいは製品・商品を創造し、開発していくには、つねに新しい理念が必要であるとがわかります。


「消費は消費なり」という格言は、"経済活動の目的は消費であり、生産はあくまでも手段にすぎない"ことを意味しています。


そして日本あるいは日本人はこの目的と手段の関係を、取り違えてきたことについては、さまざまな視点からこれまでにも何度となく触れました。


・・・しかしこの目的と手段の取り違え、主客転倒は、消費=生産の関係だけでなく、日本の貿易行動と日本がつくり上げた産業構造との関係にもみることができるのです。


天然資源に乏しく、加工貿易に頼らざるを得ない日本は、世界の中で自由貿易体制の恩恵を最大限に受けている国の一つであることには間違いありません。


もし自由貿易体制が崩れ、世界の各国が保護貿易主義に走ると、日本はたちまち経済的に沈没してしまう。


したがって日本がそれを防ぐ唯一の方法は、貿易相手国を保護貿易体制に追い込まないで、自由貿易体制を堅持することなのです。

新しい理念 2

20世紀のはじめ、アメリカではヘンリ・フォードⅠ世が、大衆車T型フォードを大量生産方式で大量生産し、自動車王国アメリカの基礎を築きました。


しかし、フォードⅠ世の企業哲学は、およそ資本の論理とはかけ離れた理念に支えられていました。


たとえば、農家に生まれたヘンリー・フォードが考えたことは、農作業につきものの重い労働から農民を解放することでした。


また大量生産によって自動車のコスト・ダウンをはかり、安い価格で自動車を供給すれば、金持ちの上流階級だけしか手に入れることができなかった自動車が、多くの一般大衆のものになるというものでした。


フォードが信奉した標語に「プライス・メイクス・ザ・マーケット」というのがあります。


この意味するところは、大量生産によるコスト・ダウンで、大量の自動車を低価格で提供すれば、売れるということですが、フォードは大量生産方式を採用する際に、労働者に対する賃金を大幅に引き上げました。


もちろんこれは労働能率を高める代償でもありましたが、同時にフォード社の従業員にも自動車が購入できる所得を保証する試みでもありました。

新しい理念

新しい商品をつくるには、そこには新しい理念が必要とされるからです。


経済の歴史をひもとけば、そういう事例にはこと欠かないのです。


現在、日本の書店の店頭にもある「クックの旅行案内」という旅行ガイドの本は、イギリス産業革命が華なやかりし19世紀後半、バプティスト派の牧師だったトーマス・クックが考え出した旅行斡旋業からスタートしたものです。


この旅行斡旋業をはじめたのが、ホテルでもなく、鉄道会社でもなく、牧師であるところに大きな意味があるのです。


当時のイギリスは、どうにか労働者の労働時間も土曜日は半ドンになり、日曜日は休日になりつつある時代でした。


そして教会では、日曜日には、日曜学校のピクニックを毎週やっていましたが、クックはどこへ行くか調べるのは大変面倒だと気がついて、旅行案内をつくることを考えついたのです。


しかしクックが、旅行業者のはしりになったのは金儲けが動機ではなかったのであって、日曜学校のピクニックを普及することにあったのです。


19世紀後半では、旅行代理業というのは超最新商写あったことは間違いないですが・・・


この商品がホテルや鉄道会社のような金儲けを動機とするものからではなく、ただ日曜学校の行事を盛んにしたいという一人の牧師の理念から誕生したことを忘れるべきではありません。

日本の消費社会

今こそ日本は、消費を客から主に、手段から目的に戻し、消費(=非所得)を王座の位置にすべき時だと思います。


しかし、消費=非生産を選好することは簡単ではありません。


日本は明治以来すべての面で西欧諸国に追いつくことに、エネルギーを費やしてきました。


つねに西欧諸国にあるモデルを求めて、追いつき、追いこせ運動をしてきたのです。


今日までの日本経済は、外国からの借り入れ技術で、借り入れ製品をつくり、借り入れ市場で商売をしてきたのです。


・・・つまり、日本は自ら、技術も、製品もそして市場(需要)も創造してこなくてもうまくいったのです。


しかし日本・西欧諸国をキャッチ・アップしたいま、日本は自らの力でモデルを創っていかなければならないのです。


消費もしかりです。


ひたすらヨーロッパ・アメリカに追いつくことに専念してきた日本に、消費を創造する器量があるでしょうか?


新しく創造することは、音楽・絵画・文学などの芸術に限らず、経済活動においても、やさしいことではないのです。

ある少年の希望 4

当然車をかなりの距離走らせなければならず、ガソリン代もずいぶんかかることにはなりますが、あの豚たちを太らせるのに必要な蛋白質はそれでまかなうことができるだろうと思ったのです。


その冬、彼は約50頭の馬を殺し、剥いだ皮は1枚2ドルで売ってガソリン代にあて、解体した肉は屑イモのこった煮といっしょに煮て、豚を丸々と太らせる餌にしました。


苦しい労働を投資したほかには彼の負担は一切なかったのです。


その投資は充分に報いられることでしょう。


シンプロットは十代にしてすでに他人の逆をいくという企業家のありかたの原則を感じとっていました。


つまり大衆はいつも間違っているということを感じとっていたのです。


1920年代半ばの農業パニックの際、大衆は豚を殺しました。


しかしシンプロットはそれを飼育しました。


また彼はすでに貧乏人の投資戦略を心得ていました。


つまり、労働を資本化したのです。


供給過剰だった豚肉は、春にはひどい品不足となり、彼が儲ける番がまわってきました。


ジャック・シンプロットの700頭の豚は、1ポンドにつき7セントで売れ、グロー・ハスキーという地元の業者から7800ドルの小切手が届きました。


彼は14歳で、その時代と地方としては、なかなかの金持ちになったわけです。